こんにちは。
even if(イーブンイフ)代表の鈴木 翼です。
HPをご覧いただき、ありがとうございます。
交流会に参加される方からは、お名前・電話番号・会社名など事前に確認するにもかかわらず、自分たち運営側の素性は明かさないというのは不公平だと思い、かなり自由に書いてみました。これを読んで、私がどんな人間なのかよく分かると思います。それで、誰も参加しなくなってしまったらごめんなさい。to staff の皆様...
生誕~社会人へ
まさかの生まれたところから書き出します笑
アパレル関係の仕事をしていた両親から、1981年7月に生を授かりました。
母親の実家が静岡県河津町というところ、毎年、海・山・川に連れて行ってもらい、夕飯には伊勢海老や鮑が出てくることが当たり前だと思っていました。中学生くらいのときに築地で伊勢海老の値段を見てひいた記憶があります...
小学生の頃から小柄で、中学1年生のときの身長が130cmでした。運動は好きだったのですが体が小さいため何をやってもでかいクラスメートには勝てませんでした。そのくせ、目立つことが好きで、人前で話したり、学芸会で主役をやったり、学級委員をやったり(組んだ女子は165cmあって悲惨でした)と、とにかくひょうきんな子供でした。
とにかく好奇心が旺盛で、3歳のときにドライヤーの中身が気になり、コードを指してスイッチをONにしたままコンセントをハサミで切って爆発させたり、知らないおじさんについて行って勝手に家に入り、夕食をごちそうしてもらったりと、昭和だからこそのエピソードもたくさん残しました。
0から1を作り出すのが好きでした。
中学生の時は、勝手にラジオ番組を始めて、友達と一緒にテープレコーダーに録音してDJ気取り、思春期真っ只中の高校生の時は、男友達の顔写真を印刷して女子生徒にランキングをつけてもらうようなねるとんみたいなことをしてました。部活には入らず、アルバイトをしていました。コンビニ、ミスタードーナツ、パチンコ店、居酒屋、コールセンター、漫画喫茶では店長もやりました(大学生でしたが)高校時代は髪を染め、派手な格好をして(そういう時代だったんです平成は)遊び回っていたので、もちろん将来のことなど何も考えず、そのままフリーター、そして家を出て一人暮らしを始めました。
当時、アルバイトをしていたパチンコ屋さんで杉山さんという35歳の男性がいました。彼は、仕事がめちゃくちゃ出来て、お客さんやお店からの評価が高いのにアルバイトから昇進したくないと言っていました。理由は「バックヤードに入ってしまうと、お客さんとコミュニケーションが取れなくなって、楽しくなくなるから。」と言っていました。杉山さんとは何度か2人でお酒を飲んだり、カラオケに行ったりしていました。フリーター1年目の秋に杉山さんから「翼は大学いかないの、行きなよ。」と言われました。自分が高卒で、経験することが出来なかった世界を見てほしいからと、将来のことを何も考えていなかった私に、まさかの進学を勧めてきました。このタイミングで、私は進学を決めました。
勉強ってなんだろう?というくらい勉強から離れていた私は、浪人している友人に「どうしたら大学に受かるか」聞きに行ったのですが「それは俺が教えてほしい」と言われてしまい、今から塾に通うタイミングでも無いし、と途方に暮れていました。残り3ヶ月で大学に入る?無理じゃないか?と諦めそうになりました。そんなときに、自分なりの作戦を思いつきました、過去問...
過去の問題が解けるようになれば、現在の問題も解けるはず。
それから3ヶ月、基礎学習などは全て無視して過去問だけ解きまくりました。大学もたくさん受ける余裕が(金銭的にも範囲的にも)ないので1校1学部に絞りました。そして、どうにかこうにか無事、合格することができたのです。
大学に入学すると、やれサークルだ飲み会だとパーティーみたいな毎日が訪れました。しかし、高校時代に遊びまくっていた私は、もう遊ぶことに飽きていました。同じクラスに片岡くんという、どう見てもヤンキーな男の子がいました。(弁髪でした)なぜか私はヤンキーに絡まれず、仲良くなる才能があったので、気づいたら仲良しになっていました。彼は父が会社を経営している、いわゆる社長の息子でした。タワマンに住み、別荘を持ち、ベンツで学校に来るみたいな...ふざけてますね笑。ただ、社長ってなんだろう、美味しいの?くらいの知識しかなかった私は、彼から聞くビジネス・起業の話をすごくワクワクしながら聞いていました。その後、高校時代の友人が見たらびっくりするくらい学業に専念しました。1年生のときは成績でいうならオールA、時間もあったので宅地建物取引士の資格や国内旅行主任者など国家試験も合格しました。この頃から「あー、いつか起業してみたいなぁ」と思うようになりました。
社会人~速攻で退職へ
当時で3,000人以上社員がいて、30グループくらいあった不動産会社へ就職しました。が、1年ちょっとで退職しました。理由は2つありました、1つは5年、10年先輩を見ても尊敬できる人がいなかった、2つ目は、飛び込み営業をするときに上司から「戸建てのインターフォンを鳴らしても誰も出てこなかったら家の中にカバンを投げろ、そして取りに行きたいと言えば出てきてくれるだろう。」という今だったら完全アウトの営業手法を強要されたこと、これだ駄目だと。
その後、生活をしなきゃならないので派遣社員として営業をやりながら「ん、まてよ。会社のせいにしていたけど自分のコミュニケーションスキルが高かったら他の解決策もあったんじゃないか」と思い、私は運営や司会を、そして講師としてコミュニケーションのプロを雇って勉強会のようなビジネスができないかと思いつきました。当時は、コーチングやアサーティブが流行りだした頃で、あちこちで勉強会が行われていました。これはチャンスだと、ホームページの作り方やマスコミへのリリース方法、集客の仕方を独学で(ブックオフで)学びました。
結果、個人事業ではありますが2年ほど運営をして、多いときでは30名ほどの参加者が集まってくれました。当時、参加してくれた方の中には20年近く経っても交流している人もいて、一緒にビジネスアイデアを出し合ったりしています。その後、個人事業だけではなかなか厳しいなぁと、フラフラ池袋を歩いていると演芸場が目に止まりました。「落語か、聞いたことないから試しに入ってみるかぁ」衝撃でした、扇子と手ぬぐいだけで、たった一人で舞台に上がり、大勢のお客さんを楽しませている、しかも皆さん高齢...なんてカッコいいんだ、私はすぐに落語の世界にのめり込み、入門しました。
喋るのが好きだった私は、噺を覚えるのも得意でメキメキといろんな噺を覚えていきました。コロナの時期ではないのに1年中マスクを付けて、モゴモゴと口を動かしていました。そんな時に「あれ、そういえば落語のように着物を着ている人って少ないなぁ」と思い、若い人が着物を着るような社会になったら面白そう!という独特の思考で一般社団法人着物プロジェクトを設立しました。最初のイベントは【着物で浅草を掃除する】でした、勉強会の事業で学んできたプレスリリースの甲斐もあって100名を超える人数が参加されました。会のあとは、アミューズさんと共同でイベントを行い、そこでは自分で落語もさせてもらいました。
この社団法人は4年ほど続けました。鳥取の智頭町さんから依頼を受けて町の人に着付けをしにいったり、観光庁さんから依頼を受けて有楽町の丸の内通りを着物で闊歩したり
これはWEGDEさんが取材してくれた記事です。
また、5泊7日の弾丸スケジュールでスペインのバルセロナで行われるサロンデマンガにて着物ショーをやったりしました。※来場者数万人規模の日本のコミケみたいなやつです。活動に対して、当時の都知事である石原慎太郎さんから感謝状も頂きました。
稼げば稼ぐほど人が離れていく
しかし、世の中そう簡単にはいきません。社団法人で売上を上げることはなかなか難しく、私も30歳を過ぎた頃から焦り始めました。そして次は、いよいよ株式会社を設立することになります。イベント事業に特化した会社でした。まずは、イベント業界の仕組みを知るためにジャニーズやアイドルなどがライブをする前の設営現場にヘルメットを被ってバイトとして参加しました。これがまたとんでもなく大変なのです。
会場から人がいなくなった時間に設営をするので就業時間が24時とか...大体終電で向かいます。例えば東京ドームですと地下の車が止まるようなコンクリートの地面に300人くらい座って待機します。お客さんが完全にはけたら一気に動き出し、それぞれポジションが貼ってあるヘルメットを渡されます。照明、テント、楽器などヘルメットに白いテープが貼ってありマッキーで書かれています。ほぼ映画カイジの世界です。帝愛グループに入ったかと思いました。大学生は元気にトレーニング代わりに来ていますが30を超えての現場作業はなかなか体に堪えます。
そんなことを何ヶ月も繰り返していると現場から声がかかるようになります。「君たちいつも動きが良いね、今度はADやってみない?」というように。作業員が8時間で10,000円だとするとADが15,000円、Dが23,000円といった具合です。そうやってクライアントさんの信頼を勝ち取っていき、他のクライアントさんを紹介してもらったり単価が高いポジションをもらっていきます。そして、それを今度は自分たちではなく自社に登録してくれたスタッフ達に紹介します。
イベントの手配業務はお金の流れが至ってシンプルです。クライアントさんから20,000円でもらった仕事をスタッフさんに15,000円でお願いしたら粗利は5,000円です。1人なら安価ですが、1日100人稼働したら500,000円の利益です。この事業には9年ほど関わっていましたが最高に稼働した日は1日784人稼働しました。1人5,000円の利益と考えると3,920,000円です。ただ、その分、労力も比例的に増えていきます。まず、784人のスタッフに当日の詳細をメールで送ります。場所、時間、到着後の連絡先、服装など誰が読んでも分かるような文章を作ります、中には添付ファイルを入れるものや到着連絡が必要なものもあります。
また、この人数が朝しっかり出発したか到着したかを確認します。そのため、電話対応の社員はAM4時から会社で待機をして電話をかけまくります。(起きない人、体調不良多数)そこで、用意していたスタンバイと呼ばれる方に電話をして当日欠勤の人の代わりに現場に行ってもらいます。こんな戦争のような時間が毎日繰り返されるわけです。やればやるほど売上・利益ともに増えるのですが、労働環境はもちろん悪化し、年に364日出勤する社員も出る始末、社員と急に連絡が取れなくなるなどは日常茶飯事でした。
そして、2021年の夏に私は会社を辞めることにしました。
今現在2024年8月14日ですが、人材派遣会社で管理職をしながら、even if を立ち上げ4度目の起業にチャレンジしています。ここまで読んで頂けたら「こいつはまだ懲りないのか」と思う方も少なくないと思います、私もそう思います。ではなぜ、また起業をしたのか...続きはまたこちらの記事でお話させていただきます。
では、おあとがよろしいようで。
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